[あきた時評] 2003年9月27日

方言/人の意識で言葉も変化


 秋田大学付属中学校の生徒が数人、方言のことを調べたいと言って、研究室にやってきた。「総合的な学習の時間」に、方言を学習のテーマとして取り上げる例は、付属中に限らず多いようである。

 中学生の抱く疑問は、単純だが本質的なものが多い。

 −−なぜ方言の違いがあるのか。

 言葉は交流のある者同士の間で共有されつつ、時代とともに変化する。もし何らかの理由で交流が断たれ、集団が分裂するようなことになれば、それぞれの言葉は、時の流れとともに異なる言葉に変化する。こうして、方言の違いが生じることになるのだ……と、まあ、一応、このように答えられる。しかし、「ではなぜ言葉は変化するのか」と問われれば、簡単には答えることができない。これは、言葉の本質にかかわる問いである。

 一方で、彼らの疑問には、一般社会の先入観を代弁するようなものもある。

 −−大阪弁が早口で荒っぽく、秋田弁がやわらかい言葉なのはなぜか。

 この質問をした生徒に、「大阪弁をどこで聞いたの?」と問うと、「テレビ」と言う。テレビから聞こえてくる大阪弁は、多くの場合、口の達者なタレントたちの言葉であり、一方の秋田弁は日常にあふれている言葉、特に中学生たちにとっては、周りのお年寄りが使っている言葉である。試しに、同じ年配の人の語りで、大阪弁の昔話と秋田弁の昔話を聞いてもらったところ、どちらもやわらかい言葉に聞こえる、という感想であった。

 後日、この生徒から手紙が届いた。中に、次のようなことが書かれていた。

 「わたしは秋田弁と大阪弁では、秋田弁の物言いがやわらかいのでは、と思っていましたが、年齢が同じ人同士で比べると、どちらもやわらかい言い方でした。でも、秋田弁の方が濁音がついていて、大阪弁などよりもかっこわるいなあなどと、自分も使っているくせに思ってしまいました」

 かつて「方言コンプレックス」というものが、地方出身者を苦しめてきた。ただし、これも、幼児期からテレビの言葉を浴びて育つ今の子供たちには、無縁のものとなりつつある。方言は今や、地域文化の象徴として扱われるようになった。そんな時代になっても、まだ、「濁音がついた言葉」を「かっこわるい」と思う感覚が、日本の社会には残っているのである。

 −−方言の中で、「かっこいい」方言と「かっこわるい」方言があるのはなぜか。

 在来の言葉を「かっこわるい」と感じて避ける。外来の(文化的に上だと思う地域の)言葉に魅力を感じて取り入れようとする。言葉が変化する原因の一つには、まさに、このような人々の意識というものがかかわっている。

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