[あきた時評] 2004年4月10日

国立大学法人化/基本は人から人への教育


 新年度が始まった。この4月から国立大学は法人化し、秋田大学も「国立大学法人秋田大学」となった。法人化にあたり、大学の運営組織にはかなりの変更があったが、私たち末端の教員に直接かかわる教育組織にはさほど大きな変更はない。

 もっとも、法人化の準備段階で、教育に関して何の改革もなかったわけではない。組織上の改革ではなく、教員の意識改革のための取り組みは、私の所属する教育文化学部でも、徐々に浸透しつつある。その一連の活動を「FD活動」と言っている。

 一般には、聞き慣れないであろう「FD」とは、フロッピー・ディスクの略語ではなく、Faculty Development(ファカルティ・ディベロップメント)の略語である−−と言われてもピンと来ないだろう。「教授団資質開発」などと訳されたりするが、これでもピンと来ない。要は、大学の教育改善のための組織的な取り組み、ということのようだ。

 たいていの大学教員は、大学院生、研究員などを経て職に就くので、研究の実績は持っている。一方、教育に関しては、特にそのための訓練を受けたことのない者も多く、自己流になりやすい。かく言う私も、大学時代に教職科目をいっさい取らなかったため、教員免許を持っていない。誤解のないように言っておくと、大学教員になるための「教員免許」というものはない。FD活動は、こうした大学教員の教育能力を一定水準に向上させるための取り組み、ということになる。

 このFD活動の一環として、昨年度、学部の専門科目に対し、学生による授業評価のアンケートを行った。このアンケートの集計を担当したことから、授業評価の難しさを実感するところとなった。

 選択科目の場合、アンケートを実施した授業後半の時期には、意欲のない者はすでに受講をやめている。そうはいかない必修科目への評価が厳しい。

 大人数の授業に対する評価が相対的に低い。授業への満足度は、教員と学生との間に個別のつながりがあってこそ、高まるもののようだ。

 「有意義だった」と評価された授業では、学生自身の自己評価も「この授業に意欲的に取り組んだ」と高かった。これは、学生自身が積極的にかかわろうとしなければ(かかわれる授業展開を工夫しなければ)、よい授業にはならないということでもある。

 大学教育において、教員に求められる一定水準の教育能力とは何だろう。私の師事した大学時代の恩師たちは、講義はやたら難しかったり眠かったりしたが、個別の指導では、学問的にも人間的にも魅力に満ちていた。法人化し、大学も外部からの評価を受けるようになる。しかし、表面的な数字に翻弄(ほんろう)され、人が人に伝えるという大学教育の基本的な仕組みの意義を、見失ってはならないと思う。

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