[あきた時評] 2005年3月26日

増田の「標準語の村」/「話し言葉教育」成果検証へ


  市町村合併で揺れる県南部の増田町。いったんは離脱した横手平鹿合併協議会に復帰し、現在、3月中の合併申請に向けて慌ただしく協議が重ねられている。

 そんな中、町議会は、「旧西成瀬小学校における言語教育の再評価のための調査研究」(代表:北条常久・秋田市立中央公民館明徳館長)という調査事業に、新年度の予算を割く決定をした。

 増田町の旧西成瀬小は、2002年3月に閉校するまで、100年以上にわたって独自の「話し言葉教育」を続けてきたことで知られる。これは、西成瀬出身の国語教師、遠藤熊吉(1874〜1952年)が創始したもので、西成瀬は、明治以来、「標準語の村」として、その地位を築いてきた。

 ところで、遠藤が西成瀬で標準語教育を行った明治中期から昭和初期という時期は、日本が中央集権体制を確立していく中で、標準語を奨励すると同時に、方言撲滅が進められた時期でもある。

 県教育委員会の前身である県学務課が編纂(へんさん)した方言集『秋田方言』(1929年)の序文には、次のような文言がある。「本県のごときは地東北の僻陬(へきすう)に在りて標準的国語の普及遅々として進まず方言訛語(かご)の残存するもの鮮(すくな)しとせず之を矯正せむことは文化発展上必須の業(わざ)と謂(い)ひつべし」。秋田県は東北の片田舎にあって、標準語がなかなか普及せず、方言なまりがたくさん残っている。これを正すことは文化発展上の必須の条件である――。

 『秋田方言』は、精緻(せいち)な記述のなされた資料的価値の高い優れた方言集であるが、これが編まれた目的は、方言を矯正し標準語を普及させるためだった。これは秋田県に限ったことではなく、この時期に編纂された方言集に共通することである。

 こうした時代にありながら、遠藤の行った標準語教育が特徴的なのは、標準語の使用能力を鍛えつつ、日常生活での方言の使用を否定しなかったことである。標準語と方言の共生という、戦後になって広がる教育理念を、遠藤はすでに実現していた。それは、西成瀬小で連綿と続けられてきた「話し言葉教育」の成果を検証することで確かめられる。増田中学校の生徒を対象に行った事前調査では、西成瀬小出身者は他の地区の出身者に比べ、標準語の能力に強い自信を持つ一方で、方言に対する愛着心も強い、という調査結果が出ている。

 今回、合併の混乱期に、町の一地区の言語教育の調査という「形」の見えにくい事業に予算が割かれるとは、正直言って思わなかった。ここで予算が付いたことは、合併後には決して顧みられることのない、地域独自の取り組みを後世に伝えようという、町の強い意志を感じる。それは、標準語と方言の共生という理念を継承する町の、「合併市町村の共生」への強い願いの表れとも思える。

戻る