沖縄の視点/本土との「差」実感
一見奇妙なことだが、秋田で方言を研究するうちに、沖縄に目が向くようになった。まだ一度も沖縄を訪れたことはないが、『沖縄語の入門』(白水社)などを眺めて、言葉の勉強をしたりしている。
これに加えて、1年前から『琉球新報』という沖縄の地方紙を取り始めた。郵送なので、2〜3日遅れで届く。地方紙ながら実に読み応えのある内容。沖縄の視点で描かれた記事には、本土の新聞とは明らかに異なる「温度差」がある。自然と、沖縄の読者の視点に立ち、一喜一憂しながら記事を読むようになっていく。最近では、「ひめゆり『退屈』問題」に大いに憤り、また、「かりゆしウエア」にほくそ笑んだ。
青山学院高等部の今年の英語の入試問題で、元ひめゆり学徒の沖縄戦の証言を「退屈」とする英文が出題された。これが問題視されるに至り、青学高等部長が沖縄に謝罪に訪れた。取材に対し部長は、「沖縄のことを頭でしか知らず、心で分かっていなかった。心で理解していれば、問題を出題するはずはなかった」と述べた(6月14日朝刊)。
折しも、沖縄では今、「沖縄戦60年」を刻む企画がさまざまに展開されている。その中でこの「事件」だ。「本土」の無神経さ、身勝手さには、憤りを超えて空恐ろしさを感じる。仮に問題作成者(本土側)の視点に立ってこの事態を眺めても、メディアが演出する「感動」の押し売りに食傷気味になった、傲慢(ごうまん)な都会人の姿が浮き彫りになるだけだ。結局、これが沖縄と本土の間の「温度差」だと言えよう。
小泉首相が着用したことで注目を浴びた「かりゆしウエア」については、「かりゆしウエア快調 一過性の熱に終わらすな」の見出しで「社説」に取り上げられている(6月19日朝刊)。ちなみに、「かりゆし」とは沖縄の言葉で「嘉例吉」すなわち「めでたいこと」の意味である。記事は、「『食』に続く『衣』の沖縄ブランドを、しっかりつかみとりたい」と結ばれているが、実際にこれから「かりゆしウエア」が本土を席巻するなら、いかにも痛快でめでたい話だ。
先月、日本語学会(日本語研究者が研究発表を行う学会)のシンポジウムがあり、「方言研究分科会」のパネリストとして話題提供を行った。従来の方言形成モデルが「中央」の視点で構想されたものだったのに対し、方言の変容をその実際の舞台となる「地域社会」の視点で読み解く、というのが発表の趣旨だった。シンポジウム終了後、沖縄のある研究者に呼び止められた。初対面だったので、名刺を交換しただけで別れた。地方にいる研究者同士、思いが通じたのなら、やはりうれしい。秋田にいながら沖縄にひかれるのは、「地方の視点」に共感できるからなのだ。
あとで名刺の名前をよく見ると、『沖縄語の入門』の著者だった。
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