[あきた時評] 2006年1月21日

東京の視点/当事者と差


 内地研究員として東京に来ているため、この冬の記録的な大雪を、体験しないままに過ごしている。うってかわって東京は、ほとんど毎日快晴である。
 連日の大雪の報道を見ていると、雪国の理不尽な苦労をあらためて思い知る。かいてもかいても積もる雪、水回りの心配、雪道を歩くときの緊張感。それが想像できるだけに、こちらでの「足元を気にせず歩ける」生活が、ことのほかありがたく思える。
 この雪のために、秋田の様子をテレビで目にする機会が増えた。先日は、秋田に系列局を持たない某テレビ局が、1月初頭の秋田を取材したドキュメント番組を、深夜に放送していた。
 秋田市内の雪の情景から始まり、市役所に設置された災害対策本部の職員による雪下ろしの場面、スーパーの野菜売り場、さらに復旧した男鹿線に乗り、男鹿の雪景色を取材していた。
 東京から訪れた取材陣は、おそらく、大雪の被害にあえぐ悲惨な市民の姿を映像に収めたかったのだろう。ただし、その取材の視点は、たいへん「東京的」であった。スーパーの野菜売り場で「野菜が高くて大変でしょう」などと質問していたが、これは今なら、日本のどこで聞いても同じ回答が返ってくるにちがいない。「大変なんです。でも野菜を採らないわけにはいかないですし」。わざわざ秋田まで来て聞くことでもないだろう、と思う。
 こうした東京ローカルな番組を見ていると、外(東京)の視点と内(秋田)の視点とのギャップに気づかされる。
 雪がデコボコに踏み固められた歩道を、自転車で走り去る男性の後ろ姿が、何のナレーションもなく流される場面があった。秋田では見慣れた光景だが、東京の取材者は大いに驚き、目を奪われたのに違いない。私も秋田に来た当初、秋田の人が平然と自転車で雪道を走るのに驚いたことを思い出した。
 秋田市内や男鹿であの積雪は、確かに尋常ではないとは思うものの、東京の取材者が「期待」する「悲惨さ」は、画面からは伝わってこなかった。むしろ、人々はたんたんと日常生活を送っているように見える。
 ところで、元旦にふと思い立ち、富士山のふもとを車で一周してみた。富士五湖を回り、さまざまな角度から見る富士山を満喫した。ただ、意外なことに、その日の富士山は幾筋かの雪の跡が残るだけで、白い雪を頭にかぶった「あの富士山」ではなかった。
 日本海側で大雪が降ると、関東は快晴となり、富士山には雪が積もらない。自然は大きくつながっている。一方で、それぞれの土地に住む人々は、それぞれの風土に合わせた暮らしを営み、それぞれの視点を培っている。秋田を離れて体験する冬は、そんな日本の多様性を教えてくれる。

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