[あきた時評] 2006年3月4日

地域社会/効率化への追随、どこまで


 内地研究員として国立国語研究所で過ごした半年が終わり、秋田に戻ってきた。それぞれの土地の空気を、身体は自然に取り込んでいるものだ。わずか半年離れていただけだが、秋田駅に降り立ったとき感じた「しっくり感」に、この土地の空気がこんなに身体になじんでいたのか、とあらためて思い知らされる。
 ただ、なじんだ土地の空気に染まりきってしまうと、かえって自分を見失う。その土地の感覚に自分が縛られていることに気づきにくくなるからだ。
 だから今回のように、異なる土地の空気を吸い、その土地の感覚をいくらかでも体得した後で、あらためて元いた土地を振り返ると、自分の立ち位置がより鮮明に見えてくる。
 東京には、都市社会特有の感覚がある。通勤電車の殺人的な混雑、細かい区分のあるゴミの分別、深夜番組にやたらと多いオタク系アニメ――効率化と管理体制の強化によって秩序を保つ一方で、人々のあらゆる嗜好が商品化される。表面的には多様な生き方が認められるように見える社会であるが、実はそれは、秩序を保つために類型化された多様性に過ぎない。
 東京人は、おそらくそのことを知った上で、その類型に自らを当てはめることにも、慣らされているように見える。
 一方、類型通りに振る舞えば楽だと分かっていても、自分が類型化されることに抵抗を感じてしまうのは、やはり地方人の感覚が私を縛っているからだろう。
 さて、約3年にわたった本欄の執筆も、今回をもって終わりとなる。「CD―ROM版秋田のことば」制作のてんまつから始まり、秋田の方言と風土について思うことを書きつづった。大学の再編統合問題、国立大学法人化、秋田県内の学校の統廃合、市町村合併、尼崎の列車事故など、その時々の気になる問題についても取り上げてきた。
 そうした中で、常に自分の立ち位置となっていたのは、効率化と管理体制の強化に向かう流れの中で、切り捨てられる者の立場であった。
 効率化も管理体制の強化も、多様な価値観のぶつかり合いを制御するために、都市社会が生み出した「装置」である。もちろん、その「装置」の意義自体を否定するつもりはない。伝統的な社会が不文律の常識を押しつけ、多様な価値観を排除してきたことを、私自身も体験的に知っている。
 ただ、都市とは異なる風土の上に形成されている地域社会で、それにどこまで追随するのが適当かは、もっと吟味しなければならないだろう。
 地域社会の独自のあり方を模索することは、これから先も、方言研究者としての私に課せられた「宿題」であり続けると思う。

戻る